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モンテ・カルロ・ラリー
舞台は世界でもっとも華やかなレースのひとつ、モンテ・カルロ・ラリー。これはラリーの世界では当時無名だったMiniが、トップの座に躍り出るまでの物語。
モンテ・カルロの美しい風景や華やかな雰囲気とは裏腹に、ラリーは過酷を極めます。ドライバーは指先まで血が引くほどの緊張感、熱い興奮と戦いながら1,000km以上に及ぶレースに挑む。それは他のラリーとは一線を画す長さ。高度な技術と戦略、そして圧倒的な車両性能の三拍子が求められたのです。
そしてこのラリーで勝利するには、車の性能とデザインの革新性だけでなく、やや風変わりな審査を通過することも必要でした。当初は、最終目的地に到着したときのコンディション、さらには乗員や荷物の数までも採点基準だったのです。このため、1957年には10人の乗客を乗せたバスで参戦した者も現れ、たちまち議論に発展。実に奇妙な“作戦”も行われたラリーだったのです。
伝説の始まり。
1959年、F1の世界で名を馳せていたエンジニアであり、レーシングチームのオーナーでもあったジョン・クーパーがMiniと出会うところからすべては始まります。先見の明のあるクーパーは、省燃費の大衆車が他に類を見ないほどのコーナリング性能をMiniが持つことを発見。モンテ・カルロ・ラリーの勝利を目指していた彼は、Miniで参戦するために、アレック・イシゴニスとブリティッシュ・モーター・コーポレーションに交渉、説得には相当の努力を要しました。その後、初期のテスト走行でMiniの優れたハンドリングに感銘を受け、すべての疑念が払拭されました。革新的なサスペンションシステムがもたらす「ゴーカート・フィーリング」を可能にし、小さなボディからは想像できない高性能なレース・モデルが誕生。無敵のチームを結成しました。そんなMiniにラリーファンも注目。小さなMiniがほかのパワフルな強豪車にどこまで対抗できるかどうかを見守りました。
強大なライバルに立ち向かう小さな存在、Mini。
Miniがモンテ・カルロ・ラリーに参加するという発表は、信じられないほど驚かれる出来事でした。それも当然。Miniといえば、都会での活気に溢れた愉しいドライブ体験を提供する車として愛されていたからです。モンテ・カルロ・ラリーのような長く過酷なラリーに、小型で都市向けの車が参加できるとは到底考えられるものではありませんでした。パワフルに改良を加えたとはいえ、エンジンを3〜4倍もチューニングされた強力なクルマに対抗できるほどの性能ではありませんでした。大きなハンディを背負いながらも、1964年のモンテ・カルロ・ラリーに参戦。操縦はパディ・ホプカークとヘンリー・リドン。視認性の高いホワイト・ルーフを載せたタータン・レッドのBMC Works Mini Cooper Sで挑戦しました。
序盤のラリーは、非常に過酷なステージとなる展開に。ボレーヌ=ヴェズビーからソスペルまでの区間は、コル・ド・トゥリーニを通過する険しい山岳ルート。ヘアピンカーブが何度も続くだけでなく、アイスバーンやパウダースノーが立ちはだかる区間。この最も過酷な区間で、ホプカークとリドンはライバルたちを圧倒。ゴーカート・フィーリングとして小回りのきくMiniの性能が功を奏したのです。このステージはのちに’’Night of the Long Knives’’ (長いナイフの夜)としてラリー史に語り継がれるほど。Miniの俊敏なハンドリングは、ほかの競合チームを圧倒。ホプカークとリドンは、最終目的地のモンテ・カルロの街を疾走し、歴史的な勝利を手にしました。
翌年1965年、昨年の覇者として出場したMiniは、ティモ・マキネンとポール・イースターにより再び覇権を堅守。1966年には、1位となったものの失格。そして1967年、ラリー・プロフェッサーのラウノ・アルトネンが副操縦士ヘンリー・リドンとのコンビで、見事3度目の優勝を飾りました。強大なライバルに立ち向かう小さな存在・Miniは人々を魅了し、世界中のMini Cooperファンを熱狂させました。
この情熱は今日も衰えず、MiniのDNAは現代のJohn Cooper Works モデルに受け継がれています。
THE NEW MINI FAMILY.
それは、史上最もMINIらしい、まったく新しいMINI.
MINIのDNAを乗せた革新的なそのクルマに乗り込んだとき、
これまでにない感情が波のように押し寄せてくるはず。
そう、Miniが生まれたときみたいに…!
NICE TO MEET YOU AGAIN.
はじめましてのワクワクを、もう一度。